ななつの嵐山WEB MAGAZINE

コラム2019.09.17

のどかな風景が広がるその訳は…

平安時代に都となってから、歴史や文化を脈々と受け継いできた京都。街を歩けば、世界的に有名な社寺をたくさん訪れることができます。一方で、現在の京都は、世界でも指折りの観光地。都市化が進み、またバックボーンの異なる多くの人々が訪れることへの対策も必須と言えます。そんな中でも昔ながらの風情を守り続けているエリアがあります。

 

歴史的風土特別保存地区への指定

多くの人々が行き交う嵐山から、少し足を伸ばして嵯峨野へ向かいましょう。大覚寺や嵯峨釈迦堂とも呼ばれる清凉寺、二尊院、落柿舎など、有名なお寺などが点在するエリアですが、見どころの一つが広々とした田園風景。秋の初めにはコスモスが咲き、そのあとは稲穂が黄金色に輝きます。その風景の中に佇むお堂を見ていると、まるで時代を少し遡ったような、そんな気分にすらさせてくれる風景が広がります。

先ほども述べましたが、嵯峨野はにぎやかな人気観光スポット・嵐山の目と鼻の先。なのに、まるで別世界のような風景が広がるのはなぜなのでしょう。それは、歴史的風土特別保存地区に指定されているからなのです。これは京都市が指定するもので、京都が大切にしてきた風土そのものを守るための施策です。指定区域内では、たとえ所有者であっても、市長の許可なく景観を変えるような行為を行うことはできません。嵯峨野以外には、左京区銀閣寺界隈も指定を受けています。

 

嵯峨野のシンボルともいえる広沢池

美しく広がる牧歌的な風景の中にさまざまな観光名所が点在する嵯峨野ですが、そのシンボル的存在といえば、大覚寺と広沢池でしょう。大覚寺は、平安初期に嵯峨天皇が皇后と過ごすために建てた離宮を前身とするお寺です。嵯峨天皇は、平安京遷都を行なった桓武天皇、その後を継いだ平城天皇に継いで天皇の座につきました。遷都で不安定だった世の中を安定させた天皇としても知られます。一方で、文化・芸術にも造詣が深く、都から少し離れた嵯峨野の地をとても気に入っていたといいます。境内の半分を占める大沢池では舟遊びも行われたそうですよ。

さて、大覚寺からさらに東へ歩きましょう。25分ほどでしょうか、広い池が見えてきます。

「広沢池」と書いて「ひろさわのいけ」と呼ぶこの池は、平安中期の僧であり、宇多天皇の孫にあたる寛朝が池のほとりにあった山荘を遍照寺とした際に作られたと言われています。

広沢池は古くから観月の名所として有名で、西行も訪れて歌を残しているといいます。遍照寺の対岸に見える山は遍照寺山で、嵯峨富士とも呼ばれる形状の美しい山。水面に月と山が映る様を平安歌人達も眺めたのかもしれません。

 

ユニークな姿の石仏も

寛朝が住持したころには広大な寺域を有していたとされる遍照寺ですが、寛朝の死後は徐々に衰退し、遍照寺は現在の地に移ることとなりました。池の周囲には多宝塔なども立っていたと言いますが、今はその姿を見ることはできません。その一つに人工的に作られた観音島がありました。金色の十一面観音が祀られていたといいます。

時代は下がって明治時代。観音島は再考されることになりました。この時にまつられた千手観音がユニークなのです。仏像というと木製のものを想像しますが、この千手観音は石を刻んだもの。石ですから、木のように繊細な造作は難しかったのでしょうか。通常、千手観音は中央の合掌している手を合わせて42本の手を持つのですが、こちらの石仏は4本の手が3列に並んだ12本の脇手が左右にあり、他に合掌する手が2本、托鉢の手が2本。合計28本の手があります。その表情がのどかな風景にとても馴染んでいるのです。

嵯峨野を訪れたら、このやさしそうな観音様に会いに行ってくださいね。

 

<本文監修>

観光ガイド「京都旅屋」代表   吉村晋弥   プロフィール>